金城次郎 (1912~2004)
壺屋に生まれ、壺屋焼の伝統をもとに、天性の資質を花開かせた金城次郎は、普段使いの焼物作りに主眼をおき、多彩な技法を駆使して、独特な作品を作り出してきました。大阪日本民芸館では、昨年12月に92歳で没した沖縄を代表する陶工、人間国宝・金城次郎の業績を偲び、精選された作品約170点を展示しています。今回追悼展示する作品は、多くの代表作が生まれた昭和40年代の壺屋での仕事で、彼の大らかな個性が余すことなく表現されています。好んで描いた魚の図案について「沖縄は島国で周囲は海だからね。海の生物をテーマにした」「写実ではなく自然だよ」と語っています。線彫り技法から生まれる魚文や海老文は、力強さと躍動感に溢れ、金城次郎の真骨頂とも言えるものです。
略年譜
1912(大正元) | 12月3日、沖縄県那覇市与技1313番地に生まれる |
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1919(大正8) | 真和志尋常高等小学校入学 |
1924(大正13) | 新垣栄徳の製陶所で陶器見習工として働く |
1936(昭和11) | 10月泊村屋比久カメと結婚 長男敏男生まれる |
1937(昭和12) | 長女須美子生まれる |
1940(昭和15) | 召集 熊本輜重隊藤崎部隊に配属 |
1943(昭和18) | 次男敏昭生まれる |
1945(昭和20) | 防衛兵として召集 沖縄戦終結 |
1946(昭和21) | 1月壺屋に仕事場をもち独立 |
1954(昭和29) |
第6回沖縄美術展覧会(沖展)に工芸部門が新設され出品(以後連続出品) 12月新垣栄三郎と第1回陶芸二人展を開催 (1958年からは小橋川永昌が加わり三人展として発展) |
1955(昭和30) | 第29回国展に初入選(以後連続入選) |
1956(昭和31) | 第30回国展にて新人賞受賞 |
1957(昭和32) | 第31回国展にて『呉須絵大壺』が国画会受賞 会友となる |
1969(昭和44) |
広島天満屋にて第1回個展開催 日本民藝館展にて『三彩盒子』他が日本民藝館賞受賞 |
1971(昭和46) | 第1回日本陶芸展に入選 |
1972(昭和47) | 10月読谷村座喜味2677番地に移動し窯を開く |
1973(昭和48) | 国画会会員となる |
1974(昭和49) | 京都国立近代美術館主催『沖縄の工芸』展に出品 |
1978(昭和53) |
1月長年指導を受けた人間国宝濱田庄司死去 12月高血圧にて倒れる(4か月静養) |
1981(昭和56) | 勲六等瑞宝章受賞 |
1985(昭和60) |
重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される 昭和60年度沖縄県功労章受賞 |
1993(平成5) | 勲四等瑞宝章受賞 |
2004(平成16) | 12月24日死去 享年92歳 |
金城次郎を知る柳宗悦と河井寛次郎は彼について次のように語っています。
『描く陶工』 柳 宗悦
壺屋の新垣榮徳氏の窯で次郎が繪附をしてゐる所である。次郎の技は大いにいゝ。竝んでゐるのは「まかい」と呼ぶ茶碗であるが、之に呉州で内と外とに繪 附をする。其の繪が自由で活々してゐて實にうまい。繪の系統を見ると南方支那のものに一脈通じるが、それ等のものに少しも負けてゐない。實は之だけ繪を 描きこなせる陶工を有つてゐる窯はもう本土には殆どない。『工藝』第130号(昭和15年)
* 柳宗悦
1889年(明治22)~1961年(昭和36)
宗教哲学者。学習院高等科に在学中、雑誌『白樺』の創刊に参加し、東京帝国大学哲学科に学ぶ。李朝工芸や英国スリップウェアとの出会いをきっかけに、民間で用いられる日常品の美に注目していく。仏教の他力思想に基づく独創的な民藝美論を提唱、濱田庄司・河井寛次郎らと共に「暮らしの美」を旗印とする民藝運動を展開する。1936年には日本民藝館を創設した。
『壺屋と上燒』 河井 寛次郎
次郎は珍らしい位よく出來た人で、氣立てのよい素晴らしい仕事師である。轆轤ならばどんなものでもやつてのける。彫つたり描いたりする模樣もうまく、 陶器の仕事で出來ないものはない。中折の古帽子を此節流行する戰鬪帽風に切り取つたのを冠つて、池の縁の轆轤場に坐つて、向ふの道行く人に毎日素晴らしい景色を作つてくれて居る。『工藝』第99号(昭和14年)
* 河井寛次郎
1890年(明治23)~1966年(昭和41)
陶芸家。東京高等工業学校、京都市陶磁器試験場を経て、1920年、京都・五条坂に窯を開く。
柳宗悦との交友の中で自らの作風を変化させ、色鮮やかな釉薬と重厚で変化に富んだ独自の造形を確立していった。その他、木彫や書などの作品も残している。